中国新聞社 記者:謝国橋による渡辺明次インタビュー


「梁祝(リャンチュウ)伝説」を日本に広めることを志し、巨額の退職金を使い果たしても後悔していない日本人
日本語訳:渡辺明次

(原題) 日本老人立志傳播“梁祝”花光巨額退休金不後悔
中国新聞社 記者:謝国橋 (原文3240字)
http://www.chinanews.com/gj/2012/02-13/3664036.shtml


 梁山伯と祝英台、孟姜女、白蛇伝、牛郎織女(七夕)などの四大民間愛情物語は中国では津々浦々誰でもがよく知っていることである。そして圧倒的多数の人は、それは古人が追い求めた美しい愛情伝説であると見なし、その起源や真実性に対して考証を行おうとする人はめったにいない。
 けれどもここに、ある一人の普通の日本人が一編の教科書の文章を通じて「梁祝伝説」を知った後、それに強く引きつけられ、その伝説の起源や経過、物事の真相を明らかにしようと決心した。

渡辺明次先生、記者会見 2005年から、彼は中国の8つの省の18カ所に分布する「梁祝伝説」の遺跡に遍く足を運び、その行程は数万余qに及び、しかもその考証成果を論文に書き、日本でそれをまとめ出版した。それは中国梁祝文化研究会会長「周静書」氏から、「梁祝文化の伝承が残っている中国の地を全て踏査した日本の第一人者、また国外の第一人者」であると誉め讃えたられた。
  それ以後、彼は又、孟姜女伝説、牛郎織女(七夕)伝説の実地調査を行う。
この7年ほどの間に、彼は3000万円(約250万元)ほどの退職金をすっかり使い果たした。 この彼が正に渡辺明次氏であり、一人の普通の退職教師なのである。 彼は、「私の最大の願望は日本に中国四大愛情物語を普及させ、すべての日本人に梁祝伝説を知らしめることである」と言う。

一つの広告が中国留学への道を開く

2002年、渡辺明次氏は間もなく、30年教員として勤めた高等学校を定年退職しようとしていたので、どのように退職後の日々を過ごすかは日夜考える緊急の課題となっていた。新聞や雑誌上では、いくつもの定年退職後の生活、陶芸とか、蕎麦打ち修行、農業に従事とかが紹介されていたが、彼は少しも興味が持てなかった。何か社会に貢献できる道はないのだろうか、退職後の生活を充実させ有意義なものとすることはできないのだろうか?彼はずっと悩んでいた。
  ある日、渡辺明次氏は何気なく「朝日新聞」紙上に中国留学に関する「北京の4年間があなたの人生を変える」という一つの小さな広告を目にした。
  彼の目の前はぱっと明るくなり、至宝を手にれたかのように「これだ!」と感じた。
 渡辺氏はこれまでも教員として何度も中国に出かけ、中国の広い国土と活力に対して印象が深く、どのようにこれから中国と付き合うかは日本が直面する重大な課題であると深く感じていた。しかし多くの日本人は中国を理解せず、彼らに言わせれば、中国はごく近いところにあるがけれども遙かに遠い隣国なのである。彼は想った、もし自分が中国語をマスターするならば、日本語がわからない中国人のボランティアの通訳ができるだけでなく、中日民間交流の促進に力を尽くせることになる、これは定年となり時間をもてあまし悶々として家に閉じこもるよりはずっと有意義なことではないだろうか。
  渡辺氏はすぐに、東京の事務所を通じ広告を出している北京外国語大学に電話をかけ問い合わせたが、回答は彼を失望させる内容だった。学校側は、この広告は日本の若い人たちに対するもので、北京外国語大学では、60歳を越す留学生をこれまで受け入れた先例がないというのである。しかし渡辺氏は諦めることなく何度も学校側に対し自分の留学したい心からの願望を説明した。真心のあるところ一心岩をも徹し、終に、北京外国語大学は渡辺氏の申請を受け入れた。前例のないことであるので、条件は正式の学位は授与できないこと、半年に一回、健康診断を受け学校に提出するということであった。 (注、渡辺氏は入学後、四年間ただ一人皆勤をとうし、同級生、先生方の誰よりも健康で診断書は一度も提出する必要がなかった)
  2002年4月初め、定年退職の手続きを済ませた僅か10日後に渡辺氏は北京留学の途についた。

一編の教科書の課文が梁祝伝説探究の意欲をかきたてる

 現実の留学生活は渡辺氏が想像したものよりもずっと苦難に満ちている。クラスはすべて若者たちで、自分の年齢は彼らの祖父であると言っていい状況である。身を異国の地に置き、親しい友だちもなく、言葉も通じず、飲食習慣も異なり、中国語の学習も儘ならず、一学期を過ごした後、彼は留学生活をあきらめることを考えた。
  「しかし、毎日が日曜日でぼけっとして日本で何をするのだろう、もう少し続けてみようか?」 あれこれと思い巡らした末、渡辺氏は留学生活継続を決断する。
  4年間が過ぎて、彼は一つの授業も怠けず4年間「皆勤賞」を獲得する。北京留学の第二年目の後期に彼は「梁山伯リャンシャンボウと祝英台チュウインタイ」の一文を学んだ。先生の説明により、彼は、これが中国版のロミオとジュリエットであることを知る。主人公のやりきれなくも美しく人を動かす愛情に感動すると同時に、渡辺氏は多くの疑問を懐いた。梁山伯リャンシャンボウと祝英台チュウインタイは本当に実在した人のことであるのかどうか? もしそうであるとするなら、二人は何処の人で、どのようにして知り合い交際することとなったのか、文中に述べられている墓は存在するのかどうか?彼は先生や同級生に教えを請うが、先生も含め皆は、あれはたんなる一つの伝説だと言う。渡辺氏はこのような解釈を受け入れることは出来なく、考えれば考えるほど事実真相をはっきりさせる必要があると思った。
  そこで、彼は梁祝伝説を、学校が授業の一つの課題としている中国文化の調査研究のテーマにすることにした。渡辺氏はまず中国人の梁祝伝説に対する見方を理解することから着手し、入念に「中国人の意識における梁祝」というアンケート調査を行った。(注、500枚を各世代階層に配布し370枚を回収)4大民間愛情物語の対比を通じて、彼が得た結論は、梁祝リャンチュウは節操を堅く守って変えない美しい愛情を象徴しており,中国人の心の中で重要な位置を占めているということであった。

多くの困難をものともせず「梁祝伝説」の本源を考証する

 渡辺氏の「梁祝伝説」の考証の意欲はますます収拾がつかなくなった。アンケート調査の後、彼は教科書の課文の中で言及されている梁山伯と祝英台が学んだ地である、杭州へと実地調査に向かう、成果の豊富さは彼にとっては望外の喜びとなる。
   杭州で、彼のガイドを担当した中国人の学生(北外の学生の高校時代の同級生)は 私の故里は上虞市の祝家庄で、浙江省上虞市祝家庄は祝英台の生れ故郷であり、寧波にも梁祝文化公園と言うのがあると、彼に告げた。彼は直ちにそこに向かうことを決定する。寧波の「梁祝文化公園」の展示資料で、渡辺氏は中国各地の他にもまだ沢山の梁祝と関係がある遺跡があることを知る。そこですぐさま、このすべての遺跡を訪ねることを決心する。

  これ以後の一年あまりの間、渡辺氏は祝日と休日を利用して中国各地にある、梁祝関連の10カ所の墓、6カ所の学問所、一つの寺院、7省一市に及ぶ14の県や村を遍く踏査し、その行程は数万qに及んだ。その中でも、とりわけ寧波の梁祝文化公園だけでも10数回に及び、何度も訪ねるうちに切符販売員の皆と顔なじみになり、彼が現れると「切符はいらないよ!無料」と言われるようになったという。渡辺氏は、この間の苦労は私だけが知っている、けれどもとても価値があると言う。実際の踏査、資料の渉猟調査、専門家と梁祝伝承の残るその地の人々を訪ねることを通じて、渡辺氏は豊富な資料を蓄積し、脳裏の中の梁祝のイメージは日に日にはっきりしていった。
   彼は、梁祝は必ずしも一つの美しくも人を感動させる愛情伝説ではなくて、歴史上の実在の人間の出来事で、この物語はおそらく東晋(AD317〜420)に発生し、その舞台は杭州、寧波、上虞などの3地点に80%以上の可能性があると見なしている。
  梁山伯は清廉な役人で、役人に任ぜられてからは行政の仕事に励み民を愛し、河川の治水工事に力を尽くし、それが原因で過労に陥り最も英気漲る若さで早逝するのである(注、梁山伯AD352生〜373没と刻まれた石碑がある)。

  2006年、渡辺氏は自らの周到な調査研究を基礎にして卒業論文として「“梁祝”故事真実性初探」(梁祝故事の真実性の探究)を書き上げ、それはその年、北京外国語大学で「本科留学生優秀論文」に選ばれた。
  日本に帰った後、彼は自費で、この卒業論文の中国語版と日本語に翻訳されたものを一冊に収めて出版し、併せて「梁祝伝説を日本に正しく伝える」ことに志を同じくする友だちと「日本梁祝文化研究所」を創立した。それからほどなくして、彼は又も(いずれも中国の関係者に翻訳出版に関する権利金を支払い)「小説梁山伯と祝英台」、「梁祝口承伝説集」を翻訳出版し、名実共に日本の梁祝研究の第一人者となるのである。

渡辺氏の中国民間愛情物語を研究する意欲は少しも衰えない

 梁祝研究が一段落を告げてから暫くして、2006年末、彼は「孟姜女伝説」の実地調査を開始し、一年あまりをかけて、11省27カ所の孟姜女伝説の伝承地域と遺跡を遍く踏査し、その全行程は地上部実踏だけでも16,000qに及ぶ。
 そして2008年に日本で「孟姜女口承伝説集」を出版する。
  2008年、彼は又も「牛郎織女(七夕)伝説」の実地調査に着手し、中国7省に存在する伝承地域を実地踏査し、そして2009年に原稿を完成した。
  しかし資金不足から、今なお出版することが出来ないでいる。

  2009年、彼の翻訳した梁祝の小説をもとに、梁祝を日本にということで志しを同じくする古野氏が、この物語を日本語の新劇「戯曲梁祝」として書き上げ、鎌倉で好評のうちに上演した。     (日本人による「戯曲梁祝」鎌倉公演→)
  渡辺氏の事績は中日メディアの関心を呼んだ。《日本経済新聞》、《人民日報》などは、これまで彼に関する長編の文章を掲載している。日本の中国語を学ぶ雑誌《中国語ジャナール》は言う、「渡辺氏の未知の世界を探求する勇気、彼の選択と行動力は若い世代が学ぶに値する」と。
 

再び教鞭をとって中日をつなぐ

 2009年、日中交流研究所段躍中氏の紹介のもと、渡辺氏は湘潭大学へ赴き日本語科で教鞭をとる。湘潭大学の教師生活に話しが及ぶと、彼は満面笑顔に満ち溢れ幸せいっぱいである。彼は「地球上にこれに比べられる有意義な仕事はない、これこそが私が求めた充実した有意義な定年後の生活だ」と言う。
 彼は、中国の大学のキャンパスの雰囲気は日本と完全に異なっており、その中でも特に学生の学習意欲は日本とは全く雲泥の差だと言う。中国の学生は外の世界に対する好奇心がいっぱいで、学習意欲はとても強烈で、真面目な学習態度には感動させられるという。これは彼に責任の重大なことを感じさせて、毎朝目覚めると大いに頑張ろうと感じるという。できるだけ多く学生に日本を理解させるために、渡辺氏は毎回帰国する度にあらゆる方法を講じて大量の新聞の切り抜き、映像資料を収集し、それを湘潭大学に持ち来り教科の内容に取り入れている。
  彼は又、友だちなどから「ゆかた」や「和服」を探し集め日本文化の教材とし、それらを学生の各種活動に自由に貸し出している。 また学生との交流を深めるため、渡辺氏はまた毎学期一回、担当しているクラスの学生全員と夕食を共にすることを堅持している。     (「ゆかた」デビュー、「さくらさくら」を踊る→ )
  年齢が年齢なので、渡辺氏は時には学生の名前を記憶できない、そこで彼はいつでも小さな何冊かの小冊子を携帯している。その小冊子の一頁ごとに全て一人一人の学生の写真が貼ってあり、その脇に学生の名前が中国漢字で書かれ、日本語の仮名文字と中国語の読み(ピンイン)が書かれ、学年と組がある。
 渡辺氏の真面目さ、その取り組み、責任を負う姿勢は学生の尊敬を勝ち取り、彼の授業は準備もよく、内容も豊富で、生き生きしているため頗る学生の歓迎を受けているという。 
 
 湘潭大学日本語科09級の学生「梅氷mei bing」はその作文の中で「彼の辿った険しい幾山河の「道行き」のその途次に出遭った、私たちは自ら、ここで、それを分け合った者の一人となったことを喜ぶ」と書き。同じく09級の学生「彭蕾peng lei」は「こういうような日中両国の文化交流のために頑張る姿勢の先生が大好きです。先生のような存在こそ、これからの中日関係を良い方向へ導いてくれるのではないだろうか」と書いている。  

すべての日本人に「梁祝リャンチュウ伝説」を知らしめる

 梁祝伝説の日本での伝播状況に話しが及ぶと、渡辺氏は深い失望の色を表す。彼は、日本では、どんな知識のない者でも、だいらいあの「ロミオとジュリエット」はみんな知っている。しかし「梁祝リャンチュウ伝説」を知る人はほとんどいないのであると言う。
  彼の前には、日本最大の百科事典だけがある、その《平凡社世界大百科事典》の中に「梁山伯リャンシャンボウ」に関する小さな一段の記述があるのみである(注9行202文字)。
  彼にはよく理解できない、日中の文化交流は歴史も長いのに、梁山伯リャンシャンボウと祝英台チュウインタイの物語がどうして伝わってきていないのか?
  渡辺氏は、「梁祝リャンチュウ」の物語は中国人の美しい愛情に対する態度とあこがれを体現しており、それは又、儒教の修身治国の理想を体現しており、いまの日本に対してもとても強い現実的な意味があると言う。私は、この伝説の含み持つ精髄を自己の同胞に告げ知らせることを、また彼らにも、このような文化と精神に感動してもらいたいと望んでいる。

 渡辺氏は、彼が現在の状況にたどり着くことができたのも中日両国の多くの人の助けによるもので、その助力に答えるためにも、彼の現在の最大の願望は既に出版した中の三冊「梁祝口承伝説集」・「小説梁祝」・「孟姜女口承伝説集」を安い価格に変え、携帯するのに都合のよい、通俗的でわかりやすい文庫本にすることであると表明する。
  彼は、《梁祝リャンチュウ物語》の「色鮮やかな二匹の蝶が舞い飛ぶ」姿はとても美しい、これはまるで中国伝統文化の呼びかけのようであり、この呼びかけに答えて『私は絶えずこの蝶の跡をたどり、探索し中国四大民間愛情物語が日本に根を下ろすようになり、すべての日本人に《梁祝リャンチュウ伝説》を知らしめたいと望んでいる」と言う。
翻訳版5840字

ー 取材後記(写真は梁祝新年会)ー
2012年2月7日
東京にて中国新聞社 謝国橋氏による取材、インタービューを2時間以上にわたり受ける。
2012年2月12日
東京池袋での「梁祝会」にて、謝国橋氏をご招待
(写真左側奥から二人目)
2012年2月13日
4000字に近い長い記事にもかかわらず、中国新聞社ホームページの他、新華社、人民日報など多くの中国の主要メディアに掲載されるほどの人気ぶり、きっと中国の人々を感動させるでしょう。
2012年2月24日
渡辺明次(湘潭シャンタン大学にて) 日本語訳
「梁祝新年会」東京池袋にて
   

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