第2回・訪中特集:寧波~上虞へ(2017/3/27~31)
英台の故郷に嬉しいお客様を迎える
2017年3月29日、紹興日報 レポート 邱忠海(きゅうちゅうかい)、訳:渡辺明次  

「紹興日報」2017年3月29日
陳秋強会長の書の掛け軸(左右の双幅)と、
玉水河の風景を描いた書画
渡辺氏の著作「梁祝三部作」
 

 2009年10月、日本の鎌倉で上演された話劇『戯曲梁祝』の中で祝英台と梁山伯を演じた演者二人が、昨日一つの目的を持って上虞を訪れた。そしてこの二人は祝府(祝英台の屋敷)にある古色漂う舞台で梁祝の一段を演じた。
 またそれに応える形で紹興旗袍(チャイナドレス)協会の二人の会員は越劇の梁祝の一段を演じ、舞台にひとしきり“中日結合版の『梁祝』”が出現した。
 もちろん言葉は通じないのではあるが、相通じる芸術表現はやはり祝府を訪れていた参観者から盛大な拍手を勝ち取った。
青井聡子さんと伊藤健康氏は『戯曲梁祝』の中で祝英台と梁山伯を演じた。この話劇『戯曲梁祝』は2009年日本の鎌倉ではじめて上演され、観客の好評を得た。
 日本版話劇「戯曲梁祝」の作者である古野浩昭氏は元は日本の「共同通信」の新聞記者で、2007年紹興文理学院大学に一年間留学した。彼は初めて梁祝故事に触れすぐにそれに引きつけられた。それからすぐに古野氏は大量の梁祝故事の資料を読みあさった。そしてその過程の中で日本の梁祝文化の研究者である渡辺明次氏を知り、その協力を得て梁祝故事を脚本化し話劇「戯曲梁祝」の作者となった。
 昨日の午後、日本の梁祝文化のエキスパートの一行6名は上虞博物館を参観し、その後更に上虞区にある(梁祝文化伝承基地)の賓江小学校を表敬訪問。教職員、生徒との交流が行われた。
 学校には渡辺氏の著作「梁祝三部作」が、学校からは陳会長の書の掛け軸、著名な書家がこの日のためにわざわざ画いてくれた祝英台の故郷玉水河の風景を描いた書画の相互贈呈が行われた。その交流の中で、特に生徒の笛による秀逸な梁祝の主旋律が奏され一行はしきりに感じ入った。

“梁祝”で縁を結んで11年---日本の渡辺明次氏中国10余ヶ所の梁祝伝説の伝承が残る地を訪ね回る。

 “これは私の4回目の‘祝英台の故郷’である上虞訪問です”と今年70余歳の渡辺明次氏は言う。
 3月28日、日本の梁祝文化研究所、所長の渡辺明次氏の一行6名は、祝英台の故郷、上虞で梁祝文化の交流活動をするためにやって来た。
 交流活動の前に、渡辺氏は日本の梁祝文化関連の資料、書籍、日本の鎌倉で行われた戯曲梁祝のDVDなどを、渡辺氏自身の梁祝の卒業論文を含む梁祝三部作の著書等を上虞側の祝英台研究会の陳秋強会長に贈呈した。

上虞側と日本側の梁祝。中央は作者の
古野氏、祝英台の父親役を演じる
 
 
賓江小学校を表敬訪問
 


渡辺明次氏は日本では『中国全土の梁祝遺跡を訪ね回った“梁祝”研究の第一人者』である

2017年3月31日、紹興日報  責任編集 呉盈秋(ごえいしゅう)
 
 2002年、渡辺明次氏は30有余年勤めた教職を定年になって後、退職後の人生をどのように過ごそうかと考えていたときに、一つの新聞紙上の小さな広告に目を引きつけられた。それは『朝日新聞』の紙面にあった『北京の4年間があなたの人生を変える』と題された中国留学をすすめる小さな広告だった。“改変(人生を変える)”という文字に特に引きつけられた。
 渡辺氏は高校で世界史を教えていたこともあり、直ちに一つの大胆な決断をする-----‘中国に留学し、中国語を勉強しよう。’“私は留学する前にも何度も中国のたくさんの名所旧跡を訪ね回っており、中国の文化に対してとても興味を持っていた”と語る。そこで、渡辺明次氏は北京外国語大学国際交流学部(現、中文学部)に留学し、そこで4年の歳月を過ごした。60歳の高齢で、世界でも有名な学ぶに難しい言語である中国語を学ぶ、そのご苦労は想像するに余りあることだ。
 渡辺氏は語る“大学の3年の時に私は一度学校をやめようかと考えました。しかしその頃、大学の教科書の中で、一つの故事に出遭い、初めて中国語の課文を大きな声を出して読むという方法をとりました。”渡辺氏が大きな声を出して朗読した教科書の内容こそが、もの悲しく美しい故事『梁山伯と祝英台』だった。  それがきっかけで梁祝故事の虜となった渡辺明次氏は、この伝説の真実を確かめようと長い旅に踏み出すこととなった。
 彼は中国全土の10余ヶ所の梁祝伝説の伝承、遺跡のある地をすべて実地踏査し、中国語で20万余字の卒業論文を書き上げた。2006年、渡辺明次氏は日本に戻り、まずは卒業論文『梁祝伝説の真実性の探究』を中国語と日本語の対訳で出版、そして日本梁祝文化研究所を立ち上げた。それに次いで寧波の中国梁祝文化研究会会長の周静書氏が編纂した『梁山伯と祝英台の口承伝説集』を翻訳出版、さらには中国の有名な女流作家、趙清閣の長編小説『梁山伯と祝英台』を翻訳出版した。

   これらの著書は後に中国の報道記事で“梁祝三部作”と呼ばれるようになった。この渡辺氏の“梁祝”三部作が、紹興に留学していた、元共同通信の記者であった古野浩昭氏の知るところとなり、後に古野氏により日本語版の話劇「戯曲梁祝」に改編脚本化され、鎌倉の舞台で上演されたのである。
 “舞台と書籍の相互作用により、更に多くの日本人にこの中国で有名な故事を理解せしめるようになり、日本でよくある‘梁山伯(読み:りょうざんぱく)”を『水滸伝』中の‘梁山泊’(読みは同じ:りょうざんぱく)”と誤解する笑い話に終止符を打ち、梁祝故事伝説の正しい種子を日本で発芽させたいものです。”と渡辺明次氏は笑いながら語った。

訳注:泊bó は水滸伝の英雄達が群れた梁山にある湖の港 (1)船を岸につける.停泊する.停~/停泊する.船~港外/船が港の沖に停泊する.(2)泊まる;とどまる.伯bó (2)兄弟姉妹の順序で最年長者をさす.~兄/長兄.

 梁祝文化に対して、渡辺明次氏は研究の成果としての自らの独特の見解を持っている。“梁山伯の墓の在る場所は河南省汝南、浙江省寧波、江蘇省宜興である。私は梁山伯の故郷が寧波であるということが最も論理的に故事の内容と合致し、距離的な観点からも、寧波と杭州の間の徒歩では二日を要する。だからその途中、祝英台の故郷上虞までは一日かかり、その途中で梁祝の二人が出遭って一緒に杭州に学問に出かけたということになる”と語った。更に又“梁山伯は紀元後4世紀頃の清廉潔白な役人で、20歳の時に県知事に任命され、真面目で純粋な青年として仕事に取り組み、惜しいことにその一年後、河川修復に自ら取り組み疲労激しく病に倒れなくなった。だから梁祝故事は単に愛情故事とだけ捉えることは出来ない・・・
 ”渡辺明次氏は“梁祝”故事の中の彩り鮮やかに飛び舞う二頭の蝶はとても美しい、蝶は一種の抽象的な表象で・・・と語る。彼の不断の探求、中国伝統文化の探索は終わらない。



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